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僕たちの責任の所在をハッキリさせておこう。
僕たちは、あくまでも自分たちの新薬開発精一杯だ。 しかし、世間はそうは見ない。 薬業界という一つの世界で見ているような気がする。 だから、僕たちが自分の仕事に責任を持つことでしか、その信頼を裏切らない方法は無い。
そもそも重い病気の治験というのは、結構、大変だ。
例えば抗がん剤の治験。 治験に参加された患者さんの状態にもよるのだが、重篤な有害事象が、少なくない。(他の治験薬と比較してね。) 治験薬の副作用で重篤な有害事象が出たのか、それとももともと有った癌によるものか、見極めが難しい。 もちろん、動物実験などで、あきらかに副作用と分かっているものも有るが、人間に使った場合はどうなるかは、完璧に把握できてるわけではない。 だから、抗がん剤の場合はフェーズ1でがん患者さんに参加してもらう。 ごく低用量から徐々に用量をアップさせていく。 その過程で副作用を見つけていくというステップを取らざるを得ない。 ごく低用量の患者さんは、薬効すら期待されないかもしれない。 そして高い用量の患者さんには、重篤な副作用が出る可能性が有る。 その副作用を見極めるために治験をしている、という言い方も有る。 厳しい治験だ。 僕個人としては、倫理的に葛藤に苦しんだことが有る。 一度、抗がん剤の治験を担当すると、倫理的、安全性、人権の保護、というGCPの条文に書かれている文字を、身をもって考えるようになる。 その治験を行う企業とモニターの責任は重い。 そして、そのモニターを教育する僕の責任も、これまた重い。 企業の利益を優先させるか? 治験の人権を優先させるか? 一人を助けることと、一千万人を助けることと、どちらが重いか? 永遠の課題だろう。
治験について原点に戻って考えたい。
薬は、まず「化合物」として見つかる。 たとえば柳の木から「アセチルサリチル酸」という「有機化合物」が見つかったとしよう。 そのアセチルサリチル酸をマウスなどの動物実験(これらの実験を非臨床試験と言う)で、炎症を抑える働きが有ることが分かった。 さらに、毒性などを調べる。 これもほぼ問題が無かったとしよう。 そこで、科学者は、この「アセチルサリチル酸」という「有機化合物」を人間の炎症も抑えることができたら、どんなに素晴らしいだろうと思う。 そのためには、まず非臨床試験の結果(安全性、有効性、一般的な薬理作用、毒性など等)をまとめ、それらから、人間に使用可能かどうか判断する。 使用可能という判断ができたら、最初は一般の健康な男性を対象とした第1相臨床試験というものをやる。 その試験を行う方法をプロトコールという臨床試験の試験方法にまとめる。 その中には治験に参加可能な人の条件(登録基準)、参加できない人の条件(除外基準)、アセチルサリチル酸をどれ位の量で、どのように人間に使うか・・・・・・など等を細かく規定する。 もちろん、治験に参加して頂く人に対する「同意説明文書」も作る。 他にも、いろんなことを決めて、「総合機構」に治験届を出す。 治験届を出して、問題が無かったら、アセチルサリチル酸は「有機化合物」から「治験薬」と名前を変えて、人間に使われる。 そして、順次、適切な手順を踏んで、最後の第3相臨床試験のデータも全て出揃い、人間に使っても大きな副作用も出ず、しかも炎症を抑える効果も有ることが証明できたとしよう。 これらのデータを全て(非臨床試験から臨床試験、それに製造方法、分析方法なども含めて)集めて、「総合機構」へ提出される。 「総合機構」は提出された結果からGLP、GCP、GMP上の問題が無いかどうか、有効性、安全性に問題が無いかを審査する。 問題が無いと、厚生労働省へ審査結果が送られ、最終的には「厚生労働大臣」により製造の承認許可が出され、世の中に出ることになる。 世の中に出ると、アセチルサリチル酸は商品名「×××」という名で「薬」となる。 ここで注目したいのは、柳から発見された「アセチルサリチル酸」という「有機化合物」の構造式は全く変わってないということだ。 構造式が変わってないのに、それが単なる「有機化合物」から「治験薬」になり、最後には「薬」と呼ばれる。 どうしてだろう? どうして、構造そのものが全く変わってないのに、「薬」と呼んでいいのだろう。 構造式が変わってないのなら、何が変わったのか? それは「アセチルサリチル酸」に「有効性」や「安全性」という「データ」即ち「情報」が附加されたからだ。 化合物を薬に変えたのは「情報」である。 そして、審査する「総合機構」の人も、厚生労働大臣も、製薬会社が提出した「紙に書かれたデータ(情報)」しか見ていないのだ。 審査する人の誰一人として、アセチルサリチル酸の結晶構造を直接見たわけではない。 さらに、審査する人の誰一人として、治験中に治験薬を飲んだ患者さんから、直接、「効いたかどうか」、「副作用は無かったか」を聞いた人はいない。 審査する側は製薬会社が提出した紙に書かれただけの「データ(情報)」を信頼して(書面調査や実地調査等も含めて)、審査する。 厚生労働大臣はその審査結果(これまた、ただの紙に書かれたもの)を信頼して、薬として販売することを許可する。 世の中に出た「薬」は添付文書という注意書きと共に「医者」に届く。 医者は国が認めたことと添付文書に書かれたことを信頼して、患者さんに使う。 患者さんは、医者を信頼して、その薬を使う。 GCP上、製薬会社は治験に対してデータの信頼性保証を行う義務がある。 じゃ、一体、誰に対して「信頼性」を「保証」するのか? それは、その会社の臨床監査部門に対してか? それとも、「総合機構」に対してか? 「厚生労働大臣」? いずれも、違う。 僕たちは、その薬を使うことになる患者さんに対して、薬の効果と副作用のデータの「信頼性」を「保証」するのだ。 僕たちの仕事は、機構や監査から指摘を減らすのが仕事なんかではない。 薬を使ってもらう、いや、「使わざるを得ない患者さん」に対して僕たちのやっている仕事を信じてもらうために、信頼してもらうために、GCPを守りながら仕事をしてるのだ。 患者さんは、僕たちを信頼しているのだ。 もし、このサイトを通じて、一般の人や「薬を使わざるを得ない患者さん」のみなさんに、僕を信じてもらえなかったら、それは、もう僕の存在価値が無いということに等しい。
インド洋津波の被災地に年末から派遣されていた国際緊急援助隊の1次隊約60人が8日朝、帰国した。
今回の地震で悲惨なのは、津波の影響だ。 なにしろ、地震から数時間後に震源地から数千キロ離れた場所でも、被害が出た。 もし、津波に対する予報システムをとっていれば、何千人もの人が助かったに違いない。 科学が発達したと言っても、それを使えこなせない僕たちがいる。
意義なし!と言われるような薬を世の中に出すのが、治験の意義である。
何に「意義なし!」なのか? それは、世の中に薬として出しても問題ないよ、ということに異議なし!だ。 今までに無かった治療薬、既存の薬と比べて安全性が高いとか、有効性が高いものが、異議なし!なのだ。 そういった素晴らしい薬を世の中に出すためにも、治験は必要だ。 ただし、新薬の承認をもらうために治験をやり、データを申請しても、安全性に異議あり!とか有効性に異議あり!となると、これは、新薬として認められない、となって、却下される場合もある。 だから、今行われている治験中の薬が全て問題なく世の中にでるかと言えば、そうではない。 しかし、それもまた、治験があればこそ分かる話で、どうなろうとも、人間で新薬の卵の効果や安全性を確かめないといけない。 モルモットやマウス、サルに効いても、人間に効かないこともある。 それを確かめるために、治験があるのだ。 だったら、おい!人体実験じゃないか!! オレはモルモット代わりか? と言われると、はい、そうです、としか答えられない。 今、僕が飲んでいる鼻炎の薬も、風邪の薬も、あなたがお使いの薬も、すべて、そのようなモルモット代わりにされた過去の人たちの貴重なデータのもとで審査され、承認されて、そこにあるのだ。 だからと言って、自分をモルモット代わりにして欲しくないという人にまで治験を行うことはできないようになった。(つい最近のことだ。せいぜい、ここ20年というところか。) 治験に参加するということは、今の自分のためにというよりは、自分の子ども、自分の孫のため、という感じだ。 でも、治験に参加したおかげで、今まで、どんな治療をしても駄目だった病気の苦しみから救われたという人もいないではない。 基本的に治験の意義は? と言われたら、後世のために新薬をだすために必要な行為、としか言いようがない。(僕には。)
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